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新宿区町名の由来と歴史・・・第七回

新宿区の中でも東側は比較的古い町名や歴史が残る地域です。そこで江戸川橋から神楽坂、牛込神楽坂、牛込柳町、飯田橋、市ヶ谷周辺を中心に町の歴史や町名の由来をご紹介いたします。

今回ご紹介する町は、矢来町、横寺町、岩戸町です。

 

矢来町(やらいちょう)

◆最寄駅:東京メトロ東西線「神楽坂」駅、都営大江戸線「牛込神楽坂」駅

      地図データ©2024Google 「現在の矢来町」

◆町名の由来:矢来町の町名は『東京市町名沿革史』(昭和13年)に、下のように記されています。

「元と酒井氏(小濱藩)邸及先手組持筒組屋敷其他土地なりしが明治五年七月合併して町名を加う、舊時酒井邸の外垣柵矢來なりしを以て、里俗矢來下といふに取る」(『東京市町名沿革史』より)

つまり、明治5年に酒井邸(小浜藩下屋敷)と先手組筒持屋敷を含めた土地が矢来町となったということです。また、明治39年発行の『新撰東京名所図会』には矢来の様子を下記のように表現しています。

「昔、酒井邸は周圍に土手を築き、矢来を結ぶ、表門は北に面し、今の神楽坂通りなり。門の左右、東は辻番所(今、河合という酒屋あり、昔の番所の後なり)後角まで表門石垣より四十二間、西は新門際迄、表門石垣より二百六十三間半、皆矢来なり」(『新撰東京名所図会』より)

また、矢来にしたの起源を、江戸城の天守閣が燃えた明暦の大火(1657年)で将軍家光がこの酒井邸に避難してきた時に、将軍を守るため御家人衆が日夜抜き身の槍を構えて警備した様子を永遠に語り継ぐため、槍と槍を交差する様を模して、竹を交差(矢来)させて紫のヒモと朱色で結び、塀(へい)や堀(ほり)を設けずに土手を作り、その上に矢来を設けたとの記載が下記のようにあります。

「明暦大火の節、将軍家光公、難を酒井邸に避け、中の丸に在り、常時上下の御家人衆、抜身の鑓(やり)を以て、假に矢来を結び、晝夜(ひるよる)警固す、 〜爾来、當時の態を模し、永久(とわ)の紀念(かたみ)に垣を造らず、堀を設けず、矢来とせり。その結び放したる縄は、紫の紐、朱の總、鑓と鑓とを交叉したる緒の名残ぞといふ。」(『新撰東京名所図会』より)

この酒井氏は関ヶ原の戦いで徳川方につき、江戸幕府成立初期(当時は川越藩主)から今の神楽坂上の矢来町に壮大な土地を与えられています。その後、酒井氏が小浜藩主に国替えされても矢来町の屋敷は小浜藩下屋敷として酒井氏が治めています。当初の広い屋敷は小浜藩上屋敷、下屋敷を兼ねていましたが、後に上屋敷は別の場所に移り、下記の古地図のように屋敷の一部は別の藩邸として区割りされています。ただ「矢来町」として町名がついた範囲は当初の壮大な邸跡がまるまるその範囲内になっています。

出典:国立国会図書館『牛込小日向音羽町辺場末絵図』1842年

現在の矢来町には昔の面影はありませんが、矢来町の「新宿区矢来公園」には小浜藩の下屋敷があった事を伝える記念碑(下記画像)が設置されています。また、江戸時代の蘭学者「杉田玄白(すぎたげんぱく)」も若狭国小浜藩医として、矢来町に生まれたと同じ記念碑に記載されています。

 

 

横寺町(よこでらちょう)

◆最寄駅:都営大江戸線「牛込神楽坂」駅、東京メトロ東西線「神楽坂」駅

      地図データ©2024Google 「現在の横寺町」

◆町名の由来:横寺町の町名はその名のとおり、寺町の横に入る位置にあることから付いたようです。下の古地図は天保11(1840)年ごろの神楽坂上にあたる地図です。緑色の通りが「牛込寺通り」となっていまして現在の神楽坂通りになります。この古地図からもこの辺一体にお寺が集まり、寺町となっていることが伺えます。そこの横道(赤い太線)が「横寺通り」との記載があり、現在もこの横道には数件のお寺(赤枠のお寺)が同じ位置に残っています。

古地図の下の写真は、上から現在の「正蔵院(写真①)」「竜門院:現在は龍門寺(写真②)「圓福寺(写真③)」「長源寺(写真④)」「法正寺(写真⑤)」「正定院(写真⑥)」「大信寺(写真⑦)」です。

出典:国立国会図書館『江戸絵図 1号』1840年

             正蔵院(写真①)                                                                                 龍門寺(写真②)

                 圓福寺(写真③)                                                     長源寺(写真④)                                                                 法正寺(写真⑤)

                    正定院(写真⑥)                                                             大信寺(写真⑦)

 

岩戸町(いわとちょう)

◆最寄駅:都営大江戸線「牛込神楽坂」駅、東京メトロ東西線「神楽坂」駅

  地図データ©2024Google 「現在の岩戸町」

◆町名の由来:岩戸町は位置的に、神楽坂の坂上(上がりきった先)にあるため、神楽坂を「天の岩戸の神あそび(神楽)」にちなんだものと、横寺町に隣接する崖と袋町横の崖の間にあるため岩(崖)に挟まれた土地ということで、岩戸とこじつけたもので、岩戸町と名づけたされています。また、明治39年発行の『新撰東京名所図会』によると、この土地には、江戸幕府の留守居與力(与力)が住んでいたのですが、後に火除地となり寛政10(1798)年に深川六間掘町の代地になりその後、深川六間掘代地岩戸町と隣接する肴町の一部を合わせて、明治の初めに牛込岩戸町と改名したとも記載されています。

下の古地図は1830年ごろの岩戸町あたりになります。地図上には柿色の火除地が記載されています。赤枠は現在の岩戸町にあたる大体の位置になります。岩戸町の真ん中の道が現在の大久保通りになります。

                                      出典:国立国会図書館『御府内往還其外沿革図書 十二』(1830年)

また、下左の写真は横寺町に隣接する崖です。崖の高さは二階建て住宅よりやや高めで、江戸時代にはこの崖が目立っていたことが伺えます。下右は現在の岩戸町と大久保通りで神楽坂方面を撮ったものです。高い建物の後ろも二階建て住宅ほどの高さがある崖になっています。

             法正寺へ登る坂途中から撮影した岩戸町の崖                                                 大久保通りから神楽坂上方面を撮影した岩戸町