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歴史的⽂化⼈が愛した早稲⽥・⽜込・神楽坂・・・第一回目

 今回は、明治期に早稲⽥・⽜込・神楽坂界隈に住んでいた尾崎紅葉、泉鏡花、北原⽩秋をご紹介いたします。
 その前に、彼らが暮らしていた明治中期の⽇本は憲法制定や議会開設で近代国家体制を確⽴し、産業⾰命や⽇清戦争の勝利で経済・軍事が発展しました。また、教育普及や⽂化の⻄洋化が進み、知識⼈たちの新しい思想や⽂学の近代も進み⻄洋技術と伝統⽂化が融合した時代です。

 そんな時代の早稲⽥・⽜込・神楽坂界隈は、明治に⼊ると武家屋敷から町⼈の町へと変わり、明治10年には神楽坂の急な坂道が緩やかな坂道になおされ花街が誕⽣しました。また、甲武鉄道(今のJR 中央線)が開業し、現在の飯⽥橋駅の位置に「⽜込駅」が出来てから神楽坂は東京有数の繁華街として栄えたそうです。

 

早稲⽥・⽜込・神楽坂に暮らした⽂化⼈

 

尾崎紅葉(おざき・こうよう) ⽂学者・作家
本 名:尾崎徳太郎(おざき とくたろう)
⽣没年:1868(慶応3)年12⽉16⽇〜1903(明治36)年10⽉30⽇
出⾝地:東京

⽜込・神楽坂に暮らした時期
(新宿区の『区内に在住した⽂学者たち』より)
1889(明治22)年12⽉〜1891(明治24)年3⽉……⽜込北町41
1891(明治24)年3⽉〜1903(明治36)年10⽉……⽜込横寺町47(同地にて死去)

 出典:国⽴国会図書館「近代⽇本⼈の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/)

 尾崎紅葉は現在の東京・芝⼤⾨に⽣まれ、1888(明治21)年に帝国⼤学に⼊学します。その翌年の明治22 年12 ⽉から⽜込北町に住んでいました。その後、⼤学在学中から読売新聞社へ⼊社し⼤学は1890(明治23)年に中退しています。そのため紅葉の作品は主に読売新聞が発表の舞台となっていました。例えば『伽羅枕』(明治23 年)、『多情多恨』(明治29 年)などの作品が新聞に発表されます。住まいは明治24 年3 ⽉から⽜込横寺町に移り、明治30 年に新聞連載が開始された紅葉の代表作『⾦⾊夜叉(こんじきやしゃ)』は⼈気を博しますが、1868(明治36)年10⽉30⽇に胃癌のため、この⽜込横寺町の⾃宅で亡くなっています。そのため『⾦⾊夜叉』は未完に終わっています。

 『⾦⾊夜叉』の貫⼀お宮の像は今も熱海の観光スポットになっています

 また、尾崎紅葉は⼆葉亭四迷、⼭⽥美妙らと共に「⾔⽂⼀致(げんぶんいっち)」の運動にも参加し、その後の近代⽂学に⼤きな影響を与えています。

 ちなみに「⾔⽂⼀致」とは、「話しことば」に近い形式で⽂章を書くことです。それまでの⽇本では、書き⾔葉と話し⾔葉は違う⽂体を使っていたため、より⾃然に近い話し⾔葉で⼩説などを書くことは、⽇本⽂学にとって画期的なことだったのです。

 尾崎紅葉の終焉の地となった⽜込横寺町の住まいは、新宿区の「尾崎紅葉旧居跡」としてプレートが建てられています。そのプレートには「紅葉は⿃居家の⺟屋を借りて居住したが、⾃らの号でもある「⼗千萬堂」と称した。⼆階の⼋畳と六畳を書斎と応接間にし、⼀階には泉鏡花ら弟⼦が起居したこともあった。当時の家屋は戦災により焼失したが、⿃居家には今も紅葉が襖の下張りにした俳句の遺筆が保存されている」とあります。

 

泉鏡花(いずみ きょうか) ⽂学者・作家
本 名:泉鏡太郎(いずみ きょうたろう)
⽣没年:1873(明治6)年11⽉4⽇〜1939(昭和14)年9⽉7⽇
出⾝地:⽯川県

⽜込・神楽坂に暮らした時期
(新宿区の『区内に在住した⽂学者たち』より)
1891(明治24)年10⽉〜1895(明治28)年……⽜込横寺町47【尾崎紅葉⽅】
1899(明治32)年秋〜1903(明治36)年2⽉……⽜込南榎町22
1903(明治36)年3⽉〜1905(明治38)年夏……⽜込神楽町2-22

 出典:国⽴国会図書館「近代⽇本⼈の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/)

 泉鏡花は現在の⽯川県⾦沢市に1873(明治6)年に⽣まれ、16 歳のころに友⼈の下宿で尾崎紅葉の⽂学作品にふれ、⽂学を志すようになったといいます。その後、1891(明治24)年に尾崎紅葉の⽜込の住まいを訪ね、その⽇から紅葉の弟⼦となり書⽣として紅葉の⾃宅で⽣活を始めます。

 1899(明治32)年からは現在の南榎町22 に移り4 年間ほど住んでいました。この頃に短編⼩説「⾼野聖(こうやひじり)」などを発表しています。この南榎町22には新宿区の「泉鏡花旧居跡」のプレートが⽴っています。

 その後、知⼈から紹介された芸妓の伊藤すずと知り合い、1903(明治36)年には現在の神楽坂2-22 に移転し伊藤すずと同棲を始めます。ここにも新宿区の「泉鏡花旧居跡」のプレートが⽴っています。現在は東京理科⼤学の敷地となっている場所です。

 しかし、師匠の尾崎紅葉に同棲のことが知れて激しく叱られ⼆⼈は泣く泣く別れますが、紅葉の死後に、⼆⼈は結婚し1910(明治43)年から死ぬまで愛妻のすずと千代⽥区六番町に移り住むことになります。ちなみに愛妻すずは「婦系図」のモデルと⾔われています。 

 泉鏡花の作品は、1895(明治28)年『⽂芸俱楽部』に「夜⾏巡査」や「外科医」を発表し観念⼩説家として脚光を浴びます。ただ1900(明治33)年の「照葉狂⾔」以降は浪漫主義的な作⾵に転じ、「⾼野聖」「婦系図」「歌⾏燈」などを発表し、⾕崎潤⼀郎や川端康成など多くの作家に影響を与えました。

 なお、泉鏡花のお墓は最初、雑司ヶ⾕墓地にありましたが、親族の⼿により2023(令和5)年12⽉に書⽣時代を過ごした神楽坂は横寺町の圓福寺に移され、そこで眠っています。

 

北原⽩秋(きたはら はくしゅう) ⽂学者・歌⼈・詩⼈
本 名:北原隆吉(きたはら りゅうきち)
⽣没年:1885(明治18)年1⽉25⽇〜1942(昭和17)年11⽉2⽇
出⾝地:福岡県

早稲⽥・⽜込・神楽坂に暮らした時期
(新宿区の『区内に在住した⽂学者たち』より)
1904(明治37)年9⽉〜約1年……⽜込下⼾塚町41【清致館】
1905(明治38)年3⽉〜約1年……⾼⽥⾺場
1906(明治39)年夏〜約1年……⼾塚村⼤字源兵衛
1907(明治40)年〜1908(明治41)年10⽉……⽜込北⼭伏町
1908(明治41)年10⽉〜1909(明治42)年10⽉……⽜込神楽町2-22
1910(明治43)年2⽉〜同年9⽉…… 新⼩川町3-34

 出典:国⽴国会図書館「近代⽇本⼈の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/)

 北原⽩秋は福岡県柳川の海産物問屋や酒造を営む旧家で⽣まれました。19歳になる1904(明治37)年に上京し早稲⽥⼤学英⽂科に⼊学し、この年から6 年間を⾼⽥⾺場や⽜込近辺に住み続けます。この6年間は、与謝野鉄幹の新詩社に⼊り「明星」に詩歌を発表し脚光を浴びるなど、精⼒的に創作活動を⾏った時期でもあります。

 1908(明治41)年の新詩社脱退後に詩⼈や洋画家と「パンの会」をおこし、翌年には第⼀詩集『邪宗⾨』を発表しています。1911(明治44)年の抒情⼩曲集『思ひ出』により、詩⼈としての地位を確⽴しました。次いで1913(⼤正2)年の第⼀歌集『桐の花』を刊⾏、以降は⽣活上の貧窮と苦悩にあえぎ詩境は沈潜します。その後、「⾬降り」や「からたちの花」「この道」など創作童謡を数多く発表しています。昭和に⼊ると『海豹と雲』(1929)を出版、1935(昭和10)年には短歌雑誌『多摩』を創刊し、浪漫主義の復興を唱えました。

 ⽜込神楽坂2-22 は、泉鏡花が1905(明治38)年まで住んでいた町ですが、その後、北原⽩秋が移り住んだ場所で、新宿区の旧居住地跡のプレートには「泉鏡花旧居跡・北原⽩秋旧居跡」と記載されています。ここで⽩秋は住まいの裏⼿にある物理学校(現在の東京理科⼤)を⾒ながら「物理学校裏」という詩も残しています。