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新宿区町名の由来と歴史・・・第一回

 新宿区の町名表示(図版1)をご覧いただくと、西側には大きな区分の町名がありますが、東側は小さな町名が多く残っています。これは1965(昭和40)年から始まった住所表示変更が西側から東へ進んでいく途中で町名保存の運動が起きたからです。

【図版1:新宿区の町名】

新宿区で起きた町名保存運動

 明治時代より続いた日本の住所表記(字名と地番)を1962(昭和37)年から「住居表示に関する法律」により、全国で旧町名の統合や変更がなされました。しかし、この合理化優先で進められた住居表示ですが、次第に「これまでの地域がバラバラになる」「余計にわかりづらくなった」などの疑問の声が出始め、各地で反対運動が起きたそうです。新宿区でも反対運動が立ち上がり署名活動「町名保存運動」があったようです。結果、1970年代後半に「住居表示に関する法律」の実施が停止になり旧住所を生かしたまま合理化する方向へと変わっていきます。そのため新宿区は町名の多い区となり江戸時代の武家屋敷などに由来する町名が多く残りました。こうして新宿区が誕生してから消滅した町名は21となり90以上の町名が今に残ったわけです。では、ここから町名の由来とその歴史についてみていきましょう。まずは山吹町。改代町、水道町からです。

 

 

山吹町(やまぶきちょう)

◆最寄駅:東京メトロ有楽町線「江戸川橋」駅、東京メトロ東西線「神楽坂」駅

◆町名の由来:室町時代に太田道灌(おおたどうかん:室町時代後期に関東地方で活躍した武将。最初に江戸城を築いた人物)が鷹狩りの時に、雨具を求めて農家に立ち寄り、村の娘から一枝の山吹の花をさし出されたという伝説の地から町名がついたと伝えられています。下の古書は『江戸名所図会』という江戸時代に発行された今でいう行楽地のガイドブックにあたり、山伏町近辺を紹介したものです。内容は村娘が貧しく簑(みの:当時の雨具)も無いことを古歌の「七重八重花は咲けども山吹の実の一つだに無きぞ悲しき」と簑を「実の」にかけて詫びる場面です。

【図版2:江戸名所図会7巻(天保5−7年)】

出典:東京国会図書館デジタルコレクションより

「山吹の里は高田の馬場より北の方民家の辺をいふ 昔太田持資江城にありし頃一日此戸塚の金川の辺に放鷹す 急雨に遇ふて傍の農家に入り箕をからんことを乞う時に内より小女出て詞はなく盛りなる山吹の花一枝をもて持資に捧ぐ こは後拾遺集に 七重八重花はさけども山吹のみのひとつだになきぞわびしき とある兼明親王の和歌によりて答えたるにて今も其才を賞し世に伝えて美談とせり」

 

改代町(かいたいちょう)

◆最寄駅:東京メトロ有楽町線「江戸川橋」駅、東京メトロ東西線「神楽坂」駅

◆町名の由来:慶長年間に江戸城の整備のため、神田の雉子橋(きじばし:竹橋から九段下の間)の住民を牛込御徒町(今の南町、中町、北町)に移し、その後1654(承応3)年に牛込御徒町の代替え地としてゴミなどで埋め立てて宅地化した当地を与えられてついた町名です。当初は牛込築地替代町と呼ばれ古着屋が軒を連ねていたといいます。

 

水道町(すいどうちょう)

◆最寄駅:東京メトロ有楽町線「江戸川橋」駅、東京メトロ東西線「神楽坂」駅

◆町名の由来:沼地であった土地を承応年間(1652-54)に埋めたてて宅地化した町で、北に神田上水が流れていたことから水道町名がつけられたようです。江戸時代は金杉水道町、小日向水道町、関口水道町と呼ばれて、1911年に牛込水道町となり、1964(昭和39)年に住所表記を水道町と改めたそうです。