新宿区の中でも東側の比較的古い由来や歴史が残る町名として、江戸川橋から神楽坂、牛込神楽坂、牛込柳町、飯田橋、市ヶ谷周辺を中心にご紹介いたします。
今回紹介する町は、築地町、西五軒町、東五軒町、新小川町、白銀町、筑土八幡町、津久戸町です。
築地町(つきじちょう)
◆最寄駅:東京メトロ有楽町線「江戸川橋」駅、東京メトロ東西線「神楽坂」駅
◆町名の由来:築地町は牛込村の一部で、この辺りは沼地であった土地を幕府が1650(慶安3)年に済松寺(さいしょうじ)へ拝領したため当初は済松寺の開基(お寺を開山人)祖心尼(おなあ)にちなみ「祖心町」と呼ばれていました。その後、沼地は埋め立てら「築地片町」と呼ばれるようになり、1872(明治5)年には「牛込築地町」、1911(明治44)年には町名から牛込が取られ、今の「築地町」となったものです。
ちなみに済松寺(さいしょうじ)の開基祖心尼は伊勢の岩手城主、牧村利貞の娘として生まれますが幼少期に秀吉の朝鮮出兵で父をなくし、加賀藩前田家の養女となります。その後、小松城主の前田家に嫁ぎますがキリスタンを疑われ離縁されます。次に会津藩蒲生家の重臣町野幸和に嫁ぎますが死別してしまい、それから江戸に身を寄せて、深い教養かわれ春日局から大奥の取締補佐役に任命され、三代将軍の徳川家光からも厚い信頼をよせられたといいます。また済松寺の建立にあたり家光から「わが身は日光に葬られても、わが心は済松寺に留まる」と言われたそうです(済松寺ホームページより)。済松寺は現在も新宿区榎町にあります。
西五軒町(にしごけんちょう)
東五軒町(ひがしごけんちょう)
◆最寄駅:東京メトロ有楽町線「江戸川橋」駅、東京メトロ東西線「神楽坂」駅
◆町名の由来:西五軒町、東五軒町は江戸時代、小日向馬場(乗馬の練習場)の築造のために御用を果たした5人に支給された土地にちなんで「五軒町」と呼ばれていたそうです。その後1657(明暦3)年の明暦の大火後に町屋としてひらかれ、1659(万治2)年に牛込五軒町、1713(正徳3)年に町奉行支配となり「小日向馬場先片町」と言われていたようです。明治時代になって西五軒町、東五軒町となったそうです。
江戸時代の1699(元禄12)頃の小日向馬場周辺の古地図
地図データ©2024Google
こちらは今の西五軒町と東五軒町です。2つの町の間に馬場跡が今も道で囲われた範囲で確認できます。
新小川町(しんおがわちょう)
◆最寄駅:東京メトロ有楽町線「江戸川橋」駅、東京メトロ東西線「神楽坂」駅、JR総武線「飯田橋」駅
◆町名の由来:今の新小川町あたりには白鳥池とよばれる池があり、そこを1658〜1661(万治元年〜万治4)年ごろに筑土八幡の御殿山を取り崩した土と神田川を掘り起こした揚土で埋め立てた後に、今の千代田区神田小川町の住人を集団移住させたことから「新」が付く「新小川町」というようになったといいます。その後、1872(明治5)年に正式な町名になりました。
白銀町(しろがねちょう)
◆最寄駅:東京メトロ東西線「神楽坂」駅、JR総武線「飯田橋」駅、都営大江戸線「牛込神楽坂」駅
◆町名の由来:町の由来は定かではありませんが、一説には慶長年間(1596〜1615)に江戸城修築の際、田安(現在の千代田区)の住人をこの場所に移して町を開き、新たな土地で裕福になるようにと白金長者にあやかり「白銀」とつけたという事です。ただ、町の区切りがかなりいびつで、この説はいささか疑問が残ります。当初は「牛込白銀町」だったらしく、1911(明治44)に牛込がなくなり「白銀町」となったそうです。
地図データ©2024Google
現在の白銀町は「白銀公園(常陸松岡藩中山家上屋敷跡)」を中心に高低差のあるいびつな形です。
筑土八幡町(つくどはちまんちょう)
◆最寄駅:東京メトロ東西線「神楽坂」駅、JR総武線「飯田橋」駅、都営大江戸線「牛込神楽坂」駅
◆町名の由来:町の中心に筑土八幡神社が鎮座することが町名の由来になっています。東京都神社庁によると「筑土八幡神社」は、應神天皇(おうじんてんのう)、神功皇后(じんぐうこうごう)、仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)を御祭神とし、今から約1200年前の創建と伝えられた古い神社だそうで、伝教大師が神像を彫刻して祠(ほこら)に祭るときに、筑紫の宇佐神宮の宮土をもとめて礎(いしずえ)としたので筑土八幡宮と呼ばれるようになったと伝えています。また、神社の階段参道の途中にある鳥居は新宿区最古(1726年)のものだそうです。
筑土八幡神社の社殿
新宿最古の鳥居
地図データ©2024Google
この地図は筑土八幡町と津久戸町の区割りです。
津久戸町(つくどちょう)
◆最寄駅:東京メトロ東西線「神楽坂」駅、JR総武線「飯田橋」駅、都営大江戸線「牛込神楽坂」駅
◆町名の由来:今はありませんが江戸時代「筑土八幡神社」の隣には「津久戸(築土)明神」が隣り合わせで鎮座していたことから築土(津久戸)明神の門前町として「津久戸町」という町名がつけられたといいます。
この築土明神は当初、現在の大手町にある将門の墓の近くに土を守り「田安明神」として平将門を祭っていたものを津久戸村に移して「津久戸」や「筑土(つくど)」、「築土(つくど)」と名付けられたともいいます。
出典:国立国会図書館デジタルコレクションより『江戸名所図解7巻』1834-1836(天保5−7)年
右が現在も鎮座する「筑土八幡神社」。左が今はもう無い「築土(津久戸)明神」です。右の参道石段の中程には新宿区最古となる鳥居が描かれています。