新宿区の中でも東側は比較的古い町名や歴史が残る地域です。そこで江戸川橋から神楽坂、牛込神楽坂、牛込柳町、飯田橋、市ヶ谷周辺を中心に町の歴史や町名の由来をご紹介いたします。
今回紹介する町は、赤城元町、赤城下町、中里町、天神町、東榎町、榎町、南榎町です。
赤城元町(あかぎもとまち)
◆最寄駅:東京メトロ東西線「神楽坂」駅
地図データ©2024Google 「現在の赤城元町」
◆町名の由来:赤城元町は赤城神社を中心とした高台部分が町割となっています。1947年の新宿区成立時に今の町名となり、今も丁番のない単独町名として住居表示されています。
赤城神社自体は、鎌倉時代の1300(正案2)年に大胡(おおご)彦太郎重治氏の上野国赤城山の麓からの移住にともない牛込早稲田に創建されたと伝わっています。その後、江戸城を築城した太田道灌により1460年に今の牛込の高台に移されたそうです。下の絵図は1834〜1836年頃に描かれらの赤城神社の様子です。左手下には赤城坂と赤城神社へ登る石段も確認できます。
出典:国立国会図書館『江戸名所図会 7巻』
赤城下町(あかぎしたまち)
◆最寄駅:東京メトロ東西線「神楽坂」駅
地図データ©2024Google 「現在の赤城下町」
◆町名の由来:赤城下町は、その字の通り赤城神社の下(神社より低い位置)にあるので赤城下町と町名がついたものです。下図は1842(天保13)年頃の古地図で、赤囲み部分が赤城下町の大体の位置関係になります。
出典:国立国会図書館『牛込小日向音羽町辺場末絵図』
中里町(なかざとちょう)
◆最寄駅:東京メトロ東西線「神楽坂」駅
地図データ©2024Google 「現在の中里町」
◆町名の由来:中里町は、江戸時代初期には牛込村の一部として「中里村」の表記が古地図(下記古地図:1842年「牛込小日向音羽町辺場末絵図」より)にも見られます。ただ、中里村はほとんどが湿地帯の田んぼで、「牛込中里町」という町屋(町人の住む地域)から今の町名「中里町」が付けられたようです。
出典:国立国会図書館『牛込小日向音羽町辺場末絵図』
天神町(てんじんちょう)
◆最寄駅:東京メトロ東西線「神楽坂」駅
地図データ©2024Google 「現在の天神町」
◆町名の由来:天神町の町名は、町内にある北野神社(天満宮)が天神様と呼ばれる「菅原道真(すがわらのみちざね)」を祀るためついたようです。こちらも1842(天保13)年頃の古地図に「牛込天神町」という町屋の記載があります。
出典:国立国会図書館『牛込小日向音羽町辺場末絵図』
榎町(えのきちょう)、東榎町(ひがしえのきちょう)、南榎町(みなみえのきちょう)
◆最寄駅:都営大江戸線「牛込柳町」駅、東京メトロ東西線「早稲田」駅、「神楽坂」駅
地図データ©2024Google 「現在の榎町、東榎町、南榎町」
◆町名の由来:榎町の町名は町内に榎の大木があり、そこからついたと伝えられているそうです。この榎(えのき)ですが、江戸初期、書家として活躍した河内生まれの大橋龍慶(おおはしりゅうけい)が徳川秀忠(ひでたた)より牛込の土地を与えられたとし、大阪府松原市のホームページ(https://www.city.matsubara.lg.jp/docs/page4647.html)に次のような興味深い記載があります。
「龍慶の子、重政が龍慶の還暦祝いの翌年1642年に牛込にある神木の大榎が大風で倒れ、奇異霊端を感じて同木で龍慶寿像をつくることにした」とあります。この大橋龍慶像は高さが1メートルの立膝の坐像で、今も松原市の誉田八幡宮に安置されているそうです。つまり、町名の由来となる大榎は江戸初期まで牛込の地に立っていたことになります。榎の大木が立っていた場所は定かではありませんが、大橋龍慶の邸跡に済松寺は土地を与えられ、1646年お寺を創建したとされています(済松寺ホームページ:http://www.saishouji.or.jp/index.html)。1842(天保13)年頃の古地図を見ると、済松寺(さいしょうじ)の側に「牛込榎町」という町屋が見うけられます。古地図の絵図は1834〜1836年頃の済松寺です。済松寺の開基祖「姐心尼」は「おなあさん」と呼ばれ、三代将軍家光にも慕われた人物だけあり、お寺の境内は今よりもかなり壮大だったようです。
出典:国立国会図書館『牛込小日向音羽町辺場末絵図』
出典:国立国会図書館『江戸名所図会 7巻』